2015年3月1日日曜日

長谷川郁夫:「吉田健一」-2

吉田健一は1912年生まれで、承知の通り吉田茂と雪子の長男として生まれたが生後母雪子は単身赴任の茂の元、ヨーロッパに出掛けた。6歳まで母方の祖父である牧野伸顕に預けられた。学習院初等科に入学直後から父に従って青島、ロンドン、パリ、天津と転々し、1926年14歳で日本に戻り、暁星中学に転入、1930年卒業後、ケンブリッジ大学に入学し1931年3月、わずか1年で退学し日本に戻ってきた。しかしこの1年の大学生活で多くの学究と交わり、多くの本を読み、日本の伝統と文学に没頭すべきと考えての退学帰国であったらしい。父、茂は大いに落胆したらしい。外交官の道を放棄し、無頼ともいえる文学の道に進むと言い出した長男を前にしてそれは当然だったろう。祖父牧野伸顕は大久保利通の二男、岩倉遣欧使節団にも加わっていた明治維新から第1次大戦そしてその後は宮内庁内大臣として、時の政権と皇室との?ぎ役に徹したオールドリベラリストであった。吉田茂までを含め正に維新後の政治権力の中枢を歩んできた家系であったからだ。牧野は1949年なくなるが、晩年千葉柏市の住まいを茂が度々訪ね、教えを乞うたことが知られている。また憲法草案についてGHQと皇室との橋渡しにも尽力したことで知られる。

こういう背景もあり、吉田健一の著作や言動がその育ちを随所にさりげなく見せていることから興味の募る部分も多い。しかし若干19歳、著作もないのに文学を志すということの意味も判らないが健一は評論という道を選んだようだ。それしかない、必然の選択かもしれない。そして英米の著作の翻訳をしながら、日本の文学、哲学などの評論を通して自己主張を展開し始めたようだ。河上徹太郎を師とし小林秀雄、山本健吉、武田泰淳などと交わり次第に認知され出した。大半は銀座の長谷川という文士の溜まり場で酒を通しての付き合いだったようだ。1941年の開戦前後の混沌とした時代、父茂は大戦回避に向けた工作に奔走していた様子が活写されていて興味深かった。戦局が1942年のミッドウエー沖海戦で致命的な敗北を喫する辺りまで読み進んだがここでいったん返却しなくてはなるまい。ようやく全体の1/3、健一に召集令状が来るのか来ないのか、食糧難の中をなおも銀座で飲み歩く健一の先が読めない。

0 件のコメント:

コメントを投稿

吉田修一:「永遠(とは)と横道世之介」

 横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...