このベストセラーを私は読んでいなかった。1981年初版というから、今から40年も前の出版兊から、執筆当時の黒柳徹子さんは、御年40うん歳と若かった時だ。通算800万部も売れた戦後最大のベストセラーと言われている。また、著名人にしては珍しくゴーストライターも付けず、岩崎ちひろの挿絵が柔らかいタッチで和ませてくれる。1937年から1945年の東京大空襲で焼け落ちるまで8年間ほど、自由が丘駅前に本当に存在していたとは思えない小さなちいさな全校生徒数50名そこそこの、小林宗作先生が校長先生を務めていた「トモエ学園」とそこで過ごした自身の小学生時描いている。今でも十分ユニークな徹子さんの小学生時代のユニークさ振りは確かに読んでいて十分に伝わってきた。彼女はこの小学生時代、ずっと小林先生に頭をなでてもらいながら「君は本当はとってもいい子なんだよ」と声をかけ続けられていてそれがとても励みになって、私は大きくなったら小林先生のために役に立つことをしよう、と誓って成長したという。ここの「本当は」が意味するところの理解ができるようになったのはずっと後のことで、この学校と小林先生あっての今がある、と述懐している。不要になった電車の車両を教室にして毎日のお散歩が九品仏のお寺だったこと、轟渓谷で飯盒炊爨をしたこと、親戚のおじさんの別荘が鎌倉で、毎年夏は鎌倉海岸で遊んでいたことなど、餧自分にとってよく知っている、というか身近な場所で、情景を具体的に想像できるロケーションなので親近感を持って読むことができた。お父さんが有名なバイオリニストであったことは知っていたが、お母さんがとてもおおらかな方で基本、間違っていなければいつも徹子さんの味方であったこと、徹子さんが20歳になるまで、自分が如何に世間的な常識に捉われない、ある意味はみ出し者で小学1年生で最初の小学校を退学させられてトモエ学園に転校したことを知らなかった、とあとがきで書かれていて思わず、笑ってしまった。戦時下の統制厳しい中でどうしてこんなユニークな教育方針の学校が存立し得たのかも大いなる謎、と言える。この人がどういう経緯でNHKに採用されるようになったのか?これも是非ノンフィクションで読んでみたい、と思った1冊だった。
2022年11月5日土曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
吉田修一:「永遠(とは)と横道世之介」
横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...
-
2017年の夏、水をやり過ぎたのかみるみる萎れていった鉢。どうなることかと元気そうな株以外は全部、泣く泣く外して生き永らえた。相模原に引っ越して気長に付き合ってきた甲斐があって去年夏ごろから生気が帰ってきていた。水溶液の肥料などをやりながら時に日光浴させてきたら3年振りに開花した...
-
この日もぽかぽか陽気の暖かな日だった。 多摩モノレールで立川の1つ手前、「柴崎体育館前」で下車して高架から下に降りると、もうそこが根川親水公園だった。湧水が作り出す小川を整備して遊歩道に仕立ててくれている。絶好のスケッチポイントだった。驚いたことに大通りのすぐ脇の高木にアオサギ...
-
NHKカルチャーセンター主催の水彩画講座(2時間*3回)の第一回を受講しました。これまで無料のZOOMアプリを使って家族やNPOのリモート会議を何回か体験してきました。また、NPOで開催しているシルバーの人たちに向けてZOOM会議の受講の仕方、主催の仕方などの講義をしてきました...
私もこの本を読みました。
返信削除まだ子供達が小学生の頃だったか、私も大いに影響を受けたと思います。
等々力渓谷はこのような轟を書いていたのでしょうか。
確か、渓谷の轟きからこの名が付いたと何かで読んだ気がしています。
20年ほど前に行ったことがあり、都心にこのようなすばらしい渓谷があったのかと驚きました。