今朝の日経新聞の朝刊をぱらぱらとめくっていたら、毎週の美術関係の2面が「朝鮮通信使の屏風絵」紹介で埋まっているのを見てオヤオヤとその偶然に驚いた。
先の黒船についての本に関連して読んだ1冊は、やはり日本の隣国である韓国(朝鮮国)との江戸時代の関係を調べたこの1冊だったからだ。
秀吉の2度に亘る朝鮮出兵とその後徳川時代の鎖国政策で長崎出島を窓口としたオランダ・中国貿易については歴史でしっかり習った記憶がある。だが、対馬藩を窓口にした朝鮮との交易やその他、薩摩藩(琉球)、松前藩(北方との交易)についてはほとんど素通りだったと思う。問題は対朝鮮だ。昨今、韓国政府との関係がやたらと紛糾するし、過去の歴史認識では秀吉の朝鮮出兵で如何に朝鮮半島が蹂躙されたか、また、植民政策で多大な迷惑を掛けたことが蒸し返されるから、否応なしにこの国との係わり合いについては関心を持たざるを得ない。
この本では我々が正確に教えられてこなかった江戸時代の朝鮮との関係が意外にも平穏であり、かなり友好的であったことが判って興味深かった。徳川幕府は対朝鮮関係の修復に大変真面目に取り組んだようだ。朝鮮川も最初は徳川氏の働きかけには乗ってこなかったのだが2度、3度の呼び掛けでこれに応ずるようになる。最初は日本に連れて行かれた捕虜の返還を実現するためであり、恰も昨今の拉致問題のような感もある。しかし、その後は徳川幕府の代替わりの節々に大デレゲーションでもって表敬訪問をするようになる様子を克明に実地踏破を加えて紹介している。
第1回目は1607年で、1811年まで計12回。400~500名もの使節団が対馬から関門海峡を通り、瀬戸内海を船で大阪まで、そこからは陸路江戸までそしてまた同じ道を帰る。この間、対馬藩の案内の下、もてなす担当の藩は大変な神経を使い、また交流を行った。詩歌・絵画など文化交流も盛んだったようだし、文物の交換などもあったであろう。
日本もまた、釜山に倭公館を設け、常時400人近くの人たちが詰めていたという。どんな役割を果たすために派遣されていたのか、よくわからない。基本は貿易であったろう。日本からの主な輸入品は布(綿)、陶磁器、書画などの贈答品・骨董品。日本からの輸出品は銀、金などの貴金属類だったろうか?
1820年ごろ次の13回目が計画されたが、色々な事情が双方にあって時期の一致を見ず、その内に朝鮮にも異国船が訪れだし、国情騒然となって世界史の中に組み込まれて行き始めるのだ。
いづれにしてもそういう穏やかな交流が200年に亘って繰り広げられていたという事実は重い。明治政府は基本的に徳川を否定したところで始まるのであり、征韓論など明治維新で大量に出た浪人武士などの不満吸収の受け皿としての帝国植民地政策に入っていくのであろう。
こういう歴史を読み解くキーをより多く持って対処しないと色んな局面での判断を誤ったり、取るべき手段の選択肢を持ち損ねることにもなるのではないだろうか?
2007年8月12日日曜日
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