2015年1月17日土曜日
20年目
今朝は珍しく夢を見ていた。故郷の金沢の郊外で随分街が発展していて大きくなっていたが、それでも大した町ではないので、何かの会合のあと家に帰ろうとどんどん坂を下って行くのだが中々たどり着けない。方向は間違いないのだがと思って立ち止まったところで目が覚めた。時計を見ると5時30分丁度。何故だかピンときた。今日この時がどんな時かということが・・・。急いでラジオを点けると5時40分とカウントダウンの最中。なまくらながらベッドの中で黙とうをさせて貰いました。阪神淡路大震災の発生の半年前まで、尼崎の武庫之荘の社員マンションに単身赴任していたので、あの時の震災に対する感度は他の人に比べると高かったと思う。朝出勤時にはNHK神戸放送局の前からアナウンサーが建物が少し傾いているように思うと実況放送していたが切迫感は全くなかった。会社に着いてもあまり話題にならない。しかし、知っている人が一杯いるので取りあえず大阪にある関西支社に電話してみるとすんなり繋がって大丈夫だが神戸方面からは誰も出勤してこない、かなりヤバいらしい、とそれでものんびりした感じの応答だった。お昼のニュースの時にはすでに大変だった。電話は勿論通じなくなっていた。後日、関西支社の社員でも数名が亡くなったとの情報が伝わってきた。見覚えのある三宮の壊滅的な映像、阪神高速道路の飴のようにぐにゃぐにゃに崩れ落ちた映像、長田地区の大火災など、今も鮮明に思い出す。自分が住んでいたマンションでは室内はテレビが素っ飛び、家具が倒れ、屋上の貯水塔が使えなくなり、水が出なくなりそれはそれは大変だったと後で聞かされた。半年違いで自分は難を逃れたことになる。他人ごとではなかった。あれから20年、部外者にとってはもう20年だが、当事者にとっては今に尾を引いているに決まっている。人の営みは連続的であり、20年前の現実が今の現実に投影している訳で、その影響が残っていないはずがない。昨年秋に水彩スケッチでみんなの希望で神戸に行きましたが、すでに震災の面影をどこにも見つけることはできませんでしたが、旧居留地でも印象がどこか違う、入ったお店で聞けば必ず、どこが昔の儘でどこが修復したものか詳細に説明をしてくれた。それほど当事者の人たちにとってはインパクトが大きかったということだと思った。そして聞かれれば話さずにはいられないほどだったのだと思う。今日は1日、関連するテレビ番組で埋め尽くされている。東日本大震災や福島原発被害を抱えていながら、何となく情緒的な報道が多いことに違和感を覚えながら日本人の忘れ方の上手さを感じてしまう。こういう消化の仕方で良いのだろうか・・・?
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