2007年8月24日金曜日

杉並散歩:高円寺から三軒茶屋

炎天下の8/19(日)高円寺から三軒茶屋を探訪した。本来ならフルコース歩きたいところだったが、この暑さの中、目的が祖師堂(妙法寺)と三軒茶屋のサンバカーニバルという珍妙な2本立てなので途中はバスと電車にした。同行いただいたのはカメラ同好のA氏。

<strong>〔高円寺〕</strong>スタートは高円寺。JR高円寺駅の南口に降り立ったが予想通りの暑さ。見回すと左手に樹影がありそこを目指して歩き始めた。そこは氷川神社、案内書きによれば「天文の頃(1532~4)村内曹洞宗高円寺の創建と同時と」との伝え。この先に高円寺が出てくる。環7の西側のこの一帯はお寺の団地らしく爽洞宗・日蓮宗など宗派別に集まっている感じだ。 特に、曹洞宗 西照寺、曹洞宗 松應寺、永昌山 宗泰院、曹洞宗 長龍寺と4つの堂々とした寺が並ぶ通りは寺町の雰囲気をかもし出し、こんな1画があるとは想像もしていなかった。ここから目的地である妙法寺への最短コースを辿る中にも鳳林寺、淨雲寺、真盛寺、修行寺、本佛寺と続くのには驚かされた。
<strong> 〔妙法寺〕</strong><a target="_blank" href="http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/02/post_22.html">落語「堀之内」</a>に出てくるお祖師様が高円寺に実在するお寺であることは知っていたが、具体的にどこのことかは今回の散歩コースを辿ることになるまでは調べたことが無かった。高円寺駅から歩き始めて約40分(途中の寺に寄り道しなければもっと早い)鬱蒼とした林の中に妙法寺はあった。高円寺から歩くと裏側に着く。ぐるっと半時計方向に回り込むと堂々とした山門の前に出る。<img alt="妙法寺境内と本堂" title="妙法寺境内と本堂" src="http://www.kisas.co.jp/images_wp/20070819myohoji.jpg" /><img align="right" title="鉄門" alt="鉄門" src="http://www.kisas.co.jp/images_wp/20070819tetumon.jpg" />

中は昼下がりで閑散としていて、しかし、お盆を過ぎて間もない余韻の中で法事も執り行われていた。今年の猛暑もこの木陰に守られて何か涼しげに感じられた。本堂に向かって右側に何かお寺には不釣合いな鉄門。これが明治にイギリスから招請し、日本の鹿鳴館時代の建築家達を育てたコンドル博士の設計したものという、都重要文化財。寺を出て山門前から東に昔の参道がうねうねと続く。これを辿れば青梅街道の鍋谷横丁につながるという、一寸魅力的な散歩道だが今日のテーマから外れるので割愛。山門前の清水屋の「揚げ饅頭」を食べて愈々、三軒茶屋へ。

<img align="left" title="清水屋" alt="清水屋" src="http://www.kisas.co.jp/images_wp/20070819shimizuya.jpg" />

<strong>[三軒茶屋]</strong> バス・小田急・世田谷線を乗り継いで三軒茶屋に到着。世田谷線は下町の都電荒川線に対する山の手のローカル線だ。東急のスマートな車体の2両編成がうねうねと世田谷の町並みを縫うように走り、乗って楽しい電車だ。13時20分、三軒茶屋に到着。

三軒茶屋の地名は江戸のころ、この地に田中、角、信楽という三軒の茶店があったところから付いたという由来をネット読んだ。

サンバカーニバルの行列にジャストインタイム。歩行者天国の商店街の両側の歩道は既に見物客で一杯といいたいところだが歩道の縁石に腰を下ろした1列の見物客。暑いので日差しを強いところは人並みが途切れのんびりと行列を待つ雰囲気がローカルぽくって良かった。ブラジル組を先頭に7組のサンバダンスチームが更新するのに付き合った。デジカメのシャッターをバシャバシャ押して夏の風物を楽しんだ。浅草のサンバカーニバルはさぞや凄い賑わいだろうな、と想像しながらしかし真近かに見る汗に輝く踊り子の楽しそうな表情は良かった。<img align="left" title="サンバ" alt="サンバ" src="http://www.kisas.co.jp/images_wp/20070819sanba.jpg" />

2007年8月12日日曜日

李 進煕:江戸時代の朝鮮通信使(岩波文庫)

今朝の日経新聞の朝刊をぱらぱらとめくっていたら、毎週の美術関係の2面が「朝鮮通信使の屏風絵」紹介で埋まっているのを見てオヤオヤとその偶然に驚いた。

先の黒船についての本に関連して読んだ1冊は、やはり日本の隣国である韓国(朝鮮国)との江戸時代の関係を調べたこの1冊だったからだ。

秀吉の2度に亘る朝鮮出兵とその後徳川時代の鎖国政策で長崎出島を窓口としたオランダ・中国貿易については歴史でしっかり習った記憶がある。だが、対馬藩を窓口にした朝鮮との交易やその他、薩摩藩(琉球)、松前藩(北方との交易)についてはほとんど素通りだったと思う。問題は対朝鮮だ。昨今、韓国政府との関係がやたらと紛糾するし、過去の歴史認識では秀吉の朝鮮出兵で如何に朝鮮半島が蹂躙されたか、また、植民政策で多大な迷惑を掛けたことが蒸し返されるから、否応なしにこの国との係わり合いについては関心を持たざるを得ない。

この本では我々が正確に教えられてこなかった江戸時代の朝鮮との関係が意外にも平穏であり、かなり友好的であったことが判って興味深かった。徳川幕府は対朝鮮関係の修復に大変真面目に取り組んだようだ。朝鮮川も最初は徳川氏の働きかけには乗ってこなかったのだが2度、3度の呼び掛けでこれに応ずるようになる。最初は日本に連れて行かれた捕虜の返還を実現するためであり、恰も昨今の拉致問題のような感もある。しかし、その後は徳川幕府の代替わりの節々に大デレゲーションでもって表敬訪問をするようになる様子を克明に実地踏破を加えて紹介している。

第1回目は1607年で、1811年まで計12回。400~500名もの使節団が対馬から関門海峡を通り、瀬戸内海を船で大阪まで、そこからは陸路江戸までそしてまた同じ道を帰る。この間、対馬藩の案内の下、もてなす担当の藩は大変な神経を使い、また交流を行った。詩歌・絵画など文化交流も盛んだったようだし、文物の交換などもあったであろう。

日本もまた、釜山に倭公館を設け、常時400人近くの人たちが詰めていたという。どんな役割を果たすために派遣されていたのか、よくわからない。基本は貿易であったろう。日本からの主な輸入品は布(綿)、陶磁器、書画などの贈答品・骨董品。日本からの輸出品は銀、金などの貴金属類だったろうか?

1820年ごろ次の13回目が計画されたが、色々な事情が双方にあって時期の一致を見ず、その内に朝鮮にも異国船が訪れだし、国情騒然となって世界史の中に組み込まれて行き始めるのだ。

いづれにしてもそういう穏やかな交流が200年に亘って繰り広げられていたという事実は重い。明治政府は基本的に徳川を否定したところで始まるのであり、征韓論など明治維新で大量に出た浪人武士などの不満吸収の受け皿としての帝国植民地政策に入っていくのであろう。

こういう歴史を読み解くキーをより多く持って対処しないと色んな局面での判断を誤ったり、取るべき手段の選択肢を持ち損ねることにもなるのではないだろうか?

2007年8月6日月曜日

読書の後整理2:「黒船前後、志士と経済」服部之総著を読んで

二つ目の成る程は、幕末の世情というか、何故豪農や商家から沢山の浪士が出たりしたのか、という問いに対する何がしかの答えを得たことである。

幕末はやはり封建制度が近代資本主義的な芽生えで崩壊しはじめていたことが大きかったようだ。特に、1858年の和親条約を締結し、長崎・横浜・函館を開港したあとの貿易が急増し、物価高騰(インフレ)が起き困窮者が急増した。また、オランダやイギリスからの新知識が流入し、知識革命が起きた。これらの知的な刺激を受けやすい立場にいたのが、豪農や商家の子息たちであったりして、正義感や世の中の矛盾を何とかしたいという志を抱いた若者たちに浪士への道を歩ませたようだ。これに政治が尊王といい、攘夷といい新時代を示唆するスローガンは欲求不満を吸収していく格好のキャッチコピーであったのだろう。政治がこれらの若者を利用し、その力を借りて時代の歯車を回していったのだろう。
<table width="75%" cellspacing="2" cellpadding="2" border="1">
<tr>
<td align="center">年次</td>
<td align="center">輸出(ドル)</td>
<td align="center">輸入(ドル)</td>
<td align="center">総計(ドル)</td>
</tr>
<tr>
<td align="center">1859年</td>
<td align="right">1,200,000</td>
<td align="right">750,000</td>
<td align="right">1,950,000</td>
</tr>
<tr>
<td align="center">1863年</td>
<td align="right">6,059,000</td>
<td align="right">2,197,000</td>
<td align="right">8,256,000</td>
</tr>
</table>
圧倒的な欧米社会がもたらす産業革命の成果の前に、それまでの徳川時代の価値観、経済体制の崩壊が若者たちを変革へと駆り立てていった様子が読み取れて面白かった。

現在もある意味では明治維新期に匹敵するような価値観の喪失、グローバリゼーション化、原理資本主義ともいえる経済戦争の中で混乱が巻き起こっているといえるのかもしれない。今から140~50年前の世相を想い、その後の日本の歩みを知ることはこれからの国際社会の中の日本を考える上で大切な視点だと、つくづく感じてしまうところだ。

2007年8月1日水曜日

読書の後整理1:「黒船前後、志士と経済」服部之総著を読んで

先日図書館でふっと目に留まった1冊の文庫本(岩波文庫)。

世界の中の日本について考えるとき、江戸の末期からの現代の歴史認識を国際関係の中で捉えておくことが大事だ。そういう観点でこの本は極めて興味深い情報を提供しているように思えた。明治維新史の研究家の著したもので事実関係が興味を引いたのでメモしておいた。
一つは帆船から鉄製の船舶へ、蒸気船への発展史を経済史的観点からの分析である。世界で最初の鉄船はわずかに8トンのトライアル号で1787年のこと(イギリス)。フランス革命の2年前。ナポレオンが覇権を握ったのが1807年。イギリス海軍が正式に採用したのが1860年。どうして73年も掛かったか?
(理由その1)鉄製の船が浮かぶ訳がないという先入観、自然の摂理に反する、コンパスが狂う。
(理由その2)エンジンの性能が低く、経済的に帆船にどうしても太刀打ちできない。政府の大幅な援助金がつかないと運行できなかった。
これを打開したのがエンジンの改良、特にタービン機関の発明で最終的な決着が付く。木造船は最大で300ft、400tが限界だったらしく、汽船との競争で鉄造帆船に主流が移る。日本にイギリス船や黒船が出没するのは丁度、鉄製帆船に補助エンジンを搭載した折衷派だったのだ。従って石炭のほかに帆を扱う大勢の水夫を必要とした時代だった。

そしてアメリカからの黒船、対中国貿易の燃料補給基地としての日本への開港要求を持ってきたわけだが、当然太平洋を渡ってきたと思っていたら、それが大西洋から喜望峰廻り、インド洋を越えてやってきたというのは想像外だった。当時の<a target="_blank" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%8F%B2#.E8.A5.BF.E6.96.B9.E3.81.B8.E3.81.AE.E9.A0.98.E5.9C.9F.E6.8B.A1.E5.A4.A7_.281789-1861.29">アメリカ史</a>を整理してみた。
1812~14年:米英戦争、その後モンロー大統領のモンロー宣言(相互不干渉)
1830年代:ジャクソン大統領の下、民主政治が確立。同時に産業革命が始まる。
1845年:対スペイン戦争でカリフォルニア州を譲り受け、太平洋岸まで到達した。
1848年:カリフォルニアで金鉱発見(ゴールドラッシュ)
1849年:パナマ運河開通
1858年:日米和親条約締結(ペリー来航は1853年)
1860~65年:南北戦争(アメリカの内乱)

ペリー来航当時のアメリカの戦略は太平洋航路を開くことで、対中国貿易でイギリスに勝利することであって、現実に太平洋航路を公式に渡った記録はない。公式に残る北太平洋横断航海は日本の咸臨丸(250t)1860年ということになるらしい。 1860年といえば、上記のようにアメリカ内乱の最中ということだ。ここで彼らは誰と会い、何を見、何を感じたのだろうか?興味はまた別の世界へと飛んでしまう。

吉田修一:「永遠(とは)と横道世之介」

 横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...