2012年4月20日金曜日

立川談志:「人生、成り行き」

立川談志の2冊目。これは吉川 潮という人が談志と対談というか、聴きだしていく形で描かれています。2008年、おそらく談志の最後かもしれないという筆者の思いと談志自身の言い残しておきたいことをこの際、総ざらいしておこうという想いが一致してできたものでしょう。入門時からいろんな病と闘いながら、体調の許す限界で落語を語っていた時までの経過を10回に分けて聞き出したものでした。

談志の落語論の「業」に続いて「イリュージョン」ということについて語っています。
「イリュージョン」。これは一寸、わかりにくい。英語だと意味が固定的になってしまい、理解できなくなることが多い。自分の単語力の無さによるのですが、この場合も「幻想」とかという日本語しか出てこなくて意味があいまいになる。談志はどういう意味合いで使っているのだろうか?談志はそれをフロイトの自我を説明する3つのキーワード、「エス」、「自我(エゴ)」、「スーパーエゴ」の内の「エス」のことだといっている。
エスとは、生物学的な本能に基づく直接的な充足を得ようとする心の働きで、様々な欲求の源泉。また自我とは、エスと超自我の中心にあり人間の内面を調整し、外界に適応する機能をもつ。この自我が葛藤を調節する際、さまざまな防衛機制が用いられる。最後に、超自我とは、両親を中心とし社会的規範が個人に組み込まれたもので、価値規範となり自己を方向付ける機能をもつ。
こうなると判らない。要は、「言葉にはできない、形をとらない、ワケのわからないものが人間の奥底にあって、これを表に出すと社会が成り立たない。そこで常識というフィクション拵えてどうにか暮らしている。落語は人間を描く以上、そのような常識に囚われない人間の不完全さにまで踏み込んで演じなければならない」、といいうことのようです。たかが落語、されど落語。落語家はそこまで古典落語に出てくる人物の中に踏み込んで内面の心理をわきまえたうえで語っているのでしょうか?

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