2019年3月28日木曜日

やらねばならぬことは怒涛の如く

久し振りにわがブログを開いてみると311以来ブログが止まっていた。まるで大津波にあった東北の街々のように・・・。2月、3月と怒涛の忙しさだった。物理的な忙しさもあるがそれ以上に精神的なものの方が大きく自分にのしかかってくるように感じる。加齢のためだろうが、何事をするにも時間がかかる、気力を集中するのにも時間がかかるのだ。朝の出かけるまでの所要時間が半端なくかかる。昔のサラリーマン時代、起きてご飯を食べ、歯を磨き、髭を当たり、用も足して1時間を掛けなかったものが今は2時間は見ておかないとダメなのだ。というような日々を過ごしていると反面、意外と思うこともある。それは思いのほか時間のたつのがゆっくりだと感じてしまう自分に気が付く。早い話がこのブログを開くとき、実は前にいつ書いたのか記憶が全くなくて311に書いたのだと思い出したとき、それはずいぶん以前のことのように感じた。ということは311以来沢山の物事をこなして(体感的には)息の付く暇もないほどだった訳で、色々やって生きていたのだと振り返って見られるほど、逆説的には日々新鮮に生きてきたということかもしれない。しかし、それがそんなに長く続けられるものでもないことを体が教えてくれる。来週から水彩画の展覧会が始まる。それが終わるまでこの慌ただしさが収まるとも思えない。4月8日の終了日までもう少し、怒涛の日々が続きそうだ。世の中、我が家の住処の周辺はサクラは5分咲きという所だろうか!

2019年3月13日水曜日

大地震体験

その日、私は日本橋の某社に仕事で出掛けていました。14時40分過ぎにゆらゆらと揺れはじめました。正にゆらゆらと振動周期の長さに一瞬、これは大きいかも、でも震源は遠いなというところまでは計算できました。ところがここから凄い揺れに変わってきたのです。獣が本性をむき出しにしてきたかのように執拗に、大きく揺れだしました。使っていたパソコンのディスプレイが机の向こう側に倒れ落ち、後ろでファイル棚が倒れ始め、書類があちこち散乱し、悲鳴が飛び交いました。柱と机の間に体を入れて支えているのが精一杯でした。ペンシルビルといってもいいかもしれない9階建てのビルの8階でその時を迎えたのでした。余震も本震と同じくらい凄かったです。テレビを付け、東北が震源、津波10mとの警報をこれが本当なら凄いことになるぞ、といっている間にテレビの画像では既に津波の様子が映し出され始めました。早い。早すぎる。自分の帰る心配が頭をよぎったのはもう16時過ぎていました。しかし、時既に遅しで近在のホテルはどこも満員。電車は当然動かないだろうし今夜は泊まりだな・・・。22時頃地下鉄が、22時ごろ郊外電車が動き出したので兎も角帰ることにしました。23時に大江戸線に乗り、新宿に到着したのが午前1時半。それから京王電車で北野駅に着いたのが午前3時頃でした。家に着くとまた地震。今度の震源地は長野。これでは日本沈没だ。ラジオをつけ、地震予報に何度も起こされながら2時間ばかりのまどろみで12日の朝を迎えたのでした。

2019年3月11日月曜日

8回目の311

ここまで15年間続けてきたパソコン関係のボランティア活動は今やスマホ・タブレット講座に主役が変わっている。その3月講座が毎週月曜だったので、今日もその日だった。何と、奇しくもそれが311。「今日は講座の途中に14時46分を迎えるので、その時に黙とうしたいのだがどうでしょう?」と問いかけました。受講している皆さんはみな、70~80歳代の同年配者だったが、否応もなく異口同音にうなずいてくれた。あの日あの時皆さんはどこで何をしていましたか?という問いにはそれはそれは色々な状況で迎えていたことを知りました。そういう自分は前にも書いたかもしれませんが日本橋茅場町で友人の小さな会社のIT環境の整備を請け負っていて週に2~3回、通っていた丁度その当日でした。茅場町の交差点に立つ鉛筆ビルのような9階建てのビルの8階にいました。その揺れようは体験したことのないものでした。椅子から立ち上がったままで身動き一つできず、周りで揺れているファイリングキャビネットが倒れ掛かるのを防いでいたのか、キャビネットに自分が支えられていたのか分からない状態でした。揺れが通常の地震のように収まりかけたなぁ、ヤレヤレと思った間もなく、第2弾の一段と強い揺れが襲ってきました。後にいうマグニチュードを上方修正した初動を上回る最大の揺れだったのです。津波をより強烈にした大きな要因ではなかったかと思っている揺れだった。同じフロアのフリーアクセスが重いロッカーで崩れ、オフィス内は惨憺たる有様だった。あの2弾目の強烈な揺れから体を支えながら、これはひょっとしたら2回目の関東大震災ではないのか!という思いが頭をよぎったことも鮮明に思い出せます。だとすると命の危険もあるなぁ、とも思いました。八王子の家に帰りついたのは12日の午前4時ごろでした。家に帰りついた途端にまた強烈な揺れが襲ってきました。それはラジオで松本地方の地震(栄村震災とか長野北部地震とも呼ばれている)と知りました。小松左京の日本沈没を思い起こさせました。この時の話をしていると声が震えだす、涙が自然と湧き上がってくる。災害王国の日本なのに対策、対応のなんとお粗末なことか、劣悪な避難現場の生活環境を当たり前のように受け入れている我々日本人はあまりにもだらしない、情けない。施政に物申すべきではないのだろうか?政治はもっと色んなことができるはずだ。

2019年3月2日土曜日

新年だから(3):無線技術と人工衛星

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  <pubDate>Sat, 02 Feb 2019 11:43:26 +0000</pubDate>
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  <content:encoded><![CDATA[世の中を著しく変貌させたもう一つの技術、それは無線技術の応用であり、それを支えるもう一つの技術は人工衛星の打ち上げとその利用、管理技術だろう。我々がスマホで重宝している無線によるインターネット(Wi-Fi)接続であり、もう一つは人工衛星を使ったGPSによる測位システム活用だ。今地球を回っている人工衛星の数は凡そ3,500台(基)だそうで、国別ではロシア1,475基、アメリカ(1110基)、中国140基、日本134基という順だそうだ。この4か国で81.7%となっているそうだ。色んな役割を持った人工衛星が地球上空を回っているのだがその中での主力は言わずと知れた各国の軍が管理している偵察衛星だろう。我々が恩恵を浴している最たるものは気象衛星とこの地球測位システム(GPS)だろう。1995年ごろ乗っていた車はホンダのアコードだった。その最大の売りはカーナビと一定速度で車を走らせる自動速度運転機能だった。ところが、このカーナビはジャイロと加速度センサーだけで自分の位置を割り出していたので走行中にどんどん道路から外れてしまう。時々車を止めてこれは人工衛星の電波を捕らえて現在位置を同定するのだ。その時利用していたGPSは米軍が管理していて、民間利用には精度を粗くして数十mの範囲内にとどめていた。また万一の戦時状態ではこの電波を止めてしまうというものだった。今や国産の自前の測位システムを運用していて精度は1m程度に上がっているようだ。戦時の時の運用方法は聞いていないがこの辺りは多分、制限を加えるのだろうか。気象衛星の恩恵もスーパーコンピュータの計算能力を利用して恐ろしく高精度になっている。これも平成時代に起きた劇的な進化だろう。このGPSは今や皆が持っているスマホで利用でき、街へ出かけて迷子になる心配はおよそなくなってしまった。恐るべし。

吉田修一:「永遠(とは)と横道世之介」

 横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...