鎌倉に生活して何気なく見ていた風景の中から小さなお店に目が向くようになってきた。するとそこに新たな発見があった。今回はお豆腐屋さん。創業何と1865年、慶応元年という。先代が亡くなられてもうやめようかと思ったが、ご贔屓のお客様からの立っての願いで、継続することになったとのこと。昔ながらのお店で、週2日間だけの営業。店先でも食べることができるので一度体験してみたいと思っている。狙いは豆乳プリンだ。
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鎌倉に生活して何気なく見ていた風景の中から小さなお店に目が向くようになってきた。するとそこに新たな発見があった。今回はお豆腐屋さん。創業何と1865年、慶応元年という。先代が亡くなられてもうやめようかと思ったが、ご贔屓のお客様からの立っての願いで、継続することになったとのこと。昔ながらのお店で、週2日間だけの営業。店先でも食べることができるので一度体験してみたいと思っている。狙いは豆乳プリンだ。
図書館の開放架をサラッと見ていた時、この「かわたれどき」というタイトルに目がとまり、借り出した。この言葉には強い思い出があったからだ。昔の話ではあるが、高校生になった時、古文を担当するとてもユニークな先生がおられてその授業は緊張感もあり、面白かった。授業は黒板に新古今和歌集から一首を書き出して、その解説だけで1時間の授業を終えるというものだった。高校の授業とはこういうものかと、何か大人になったんだという感覚を持たせてくれた先生だった。その先生があるときの授業で、「たそがれどき」と「かわたれどき」の違いを教えてくれたことがあった。その時まで「かわたれどき」という表現は知らなかった。このときも高校って自分の知らない世界を色々教えてくれる凄いところなんだと思った感覚があった。自分にとってそんなタイトルの本を手に取らないわけはなかった。かわたれどきとは明け方で、あれはだれだとはっきり見分けられない頃》はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻を指す言葉で、夕方を「たそがれどき」というのに対して使われるという。
さて、小説の方は、江戸の町名主、麻の助の話でどういった仕事をしていたのかよく分からなかったが要は町の困りごと揉め事を解決して取り纏めをする役割のようで、軽い謎解き凬に仕立てた物語だった。妻を失って若くしてやもめ暮らしになって周囲をやきもきさせていたが江戸深川の洪水で流されて、あわや命を取り落としかけたときに、1本の木に摑まって難を逃れたが、助かった後記憶喪失と夜中に「止めて」とうなされるという、この娘が悪友の妹、お雪。このお雪さんが濁流の中、夜が明けていく時が「かわたれどき」だったのだ。何を見て止めて!といったのか・・・このミステリーを解けるか?継之助!
秋晴れのこの日、文学館まで散歩した。秋のバラが見ごろだと想像された。・・・予想通り見事に咲きそろっていた。この文学館は旧前田藩主が買い取って、西洋洋式の別荘に仕立てて今に残る建築物で鎌倉の3大別荘の一つに数えられている。
入り口の片隅には移動コーヒーショップが来ていて、美味しいコーヒーを頂くことができた。これも土日だけのことらしい。この文学館は来年4月から大規模改修で数年間、閉館になるとのことだった。
久々に、大巧寺に行ってみた。秋の風情はどうだろうかと、、、?
相変わらず綺麗に手入れされていた。この時期、ハギ(ヤマハギ)、ムラサキシキブ、子ムラサキシキブ、白シキブが乱れ咲いていた。
春先に見たニワフジ(コマツナギ)やアマギノグサもまだ咲いていた。今年の夏は天候不順で季節感を見失ったのだろう。
このベストセラーを私は読んでいなかった。1981年初版というから、今から40年も前の出版兊から、執筆当時の黒柳徹子さんは、御年40うん歳と若かった時だ。通算800万部も売れた戦後最大のベストセラーと言われている。また、著名人にしては珍しくゴーストライターも付けず、岩崎ちひろの挿絵が柔らかいタッチで和ませてくれる。1937年から1945年の東京大空襲で焼け落ちるまで8年間ほど、自由が丘駅前に本当に存在していたとは思えない小さなちいさな全校生徒数50名そこそこの、小林宗作先生が校長先生を務めていた「トモエ学園」とそこで過ごした自身の小学生時描いている。今でも十分ユニークな徹子さんの小学生時代のユニークさ振りは確かに読んでいて十分に伝わってきた。彼女はこの小学生時代、ずっと小林先生に頭をなでてもらいながら「君は本当はとってもいい子なんだよ」と声をかけ続けられていてそれがとても励みになって、私は大きくなったら小林先生のために役に立つことをしよう、と誓って成長したという。ここの「本当は」が意味するところの理解ができるようになったのはずっと後のことで、この学校と小林先生あっての今がある、と述懐している。不要になった電車の車両を教室にして毎日のお散歩が九品仏のお寺だったこと、轟渓谷で飯盒炊爨をしたこと、親戚のおじさんの別荘が鎌倉で、毎年夏は鎌倉海岸で遊んでいたことなど、餧自分にとってよく知っている、というか身近な場所で、情景を具体的に想像できるロケーションなので親近感を持って読むことができた。お父さんが有名なバイオリニストであったことは知っていたが、お母さんがとてもおおらかな方で基本、間違っていなければいつも徹子さんの味方であったこと、徹子さんが20歳になるまで、自分が如何に世間的な常識に捉われない、ある意味はみ出し者で小学1年生で最初の小学校を退学させられてトモエ学園に転校したことを知らなかった、とあとがきで書かれていて思わず、笑ってしまった。戦時下の統制厳しい中でどうしてこんなユニークな教育方針の学校が存立し得たのかも大いなる謎、と言える。この人がどういう経緯でNHKに採用されるようになったのか?これも是非ノンフィクションで読んでみたい、と思った1冊だった。
横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...