2009年9月30日水曜日

輪島から先に

憧れの輪島に宿を取ってあった。能登中島の観劇の後は夜も遅いのでここから直接八王子に帰るという選択肢はない。ならば宿願をかなえるチャンス到来だ。母の実家能登中島から先は行ったことがない。小さいころ実家の縁側から能登中島の駅が稲田を越してはるかに見え、蒸気機関車が吐く煙と共に、輪島に向かって走っていく。あの先にはどんな風景が広がっているのかなぁ・・・と一人あこがれていたのを鮮明の思い出せる。

着いた輪島では丁度、御陣乗太鼓が始まるというので早速見学。昔は国鉄能登線の終着駅だった輪島駅前でほとんど毎日やってくれているらしい。素晴らしい太鼓だった。能登の祭りは東北の夏祭りと合い通じるものを持っているように感じる。どちらも本物をまだ見たことがない。9/20は能登中島の熊木の祭りが有名だが一日違いで見れなかった。来年こそと思う。

輪島から白米地区の千枚田を経由して時国家の屋敷を見学。そこから農村地帯を駆け抜けて帰途に着いた。奥能登という昔のイメージからすると立派な道路が整備されていて見直した。それでも専業農家であろう人たちに支えられている農村風景は本当に心安らぐ風景を見せてくれた。癒されるというのはこういうときだなぁと思いながらハンドルを握った。どんどん距離を稼げるような走りやすい道が勿体ないようなドライブだった。

2009年9月27日日曜日

能登中島駅

能登演劇堂は七尾市中島という所にある。七尾市の中心部からは車で30分掛からない。JR能登線では3駅ある。能登中島駅で降りると徒歩10分程度どろうか?

この能登中島駅は自分の幼少時の深い思い出の地である。奥吉田という所に母の生家があって毎年学校が休みになるとこの実家に行かされたものだ。この駅から実家まで歩いてどのくらい掛かったものだろうか?小学生の頃だと随分遠く感じたものである。 小1時間は掛かったではないだろうか?正規の道を歩くと遠いので母親からは線路伝いに歩く道を教えられたものだった。当時でも2時間に1本程度しか汽車の走らないローカル線だったからであろうか、常識では子供にそのような経路を教えるなど考えられない危険に満ちた道だった。途中に川を渡る鉄橋があってそこは線路の真ん中の幅30cmほどの板が敷いてあってそこを渡るのが本当に怖かった。小学校の高学年になっても怖かった。長さは当時は凄く長く感じられた。渡っている最中に汽車がきたらどうしようといつも心配だった。今回、時間があったのでその川のほとりに行ってみた。勿論見通しも凄くよくてもし汽車が差し掛かるとしても遠くからそれは察知できるような所ではあったが。そして川幅はそれでも10mはある感じだった。怖かったわけだ。身長との比例で考えれば倍の20mにも感じて当然だ。春先になるとその川では白魚を獲る網をしつらえた小屋が川端にたち、のどかに魚を獲っていた情景を覚えている。懐かしい少年時代へのプレイバックの一瞬だった。

2009年9月25日金曜日

無名塾「マクベス」

公演を観る機会をえた。

甥の結婚式、小学校の58年目の同窓会という目出度いイベントにあやかるように、どうせ金沢まで行ったのだから予ねて噂の高い<a target="_blank" href="http://engekido.com/top.html">能登演劇堂</a>でその劇場の持てる環境を最大限に生かせるであろう演目「マクベス」。これを観れたら最高だなぁ、と予約を入れたのは今月の初め頃だったと思う。当然、とっくに売り切れでキャンセル待ちだった。このキャンセル待ちが効を奏して「どうしますか?」との電話が入ったのが16日だった。

そんな訳で、9/21にマクベスを観た。隆 巴脚本、仲代達也、若村麻由美ほかのキャストだった。観音開きの扉の向こうに山林が借景となっている。マクベスの有名な「山が動く、攻めて来る」シーンが見事に演出されていた。噂では仲代達也最後の公演との話もあり、貴重な体験をしてきた。

2009年9月13日日曜日

ウィリアム・メレル・ヴォーリスのこと

明治学院大学のチャペルを設計した人ということでその人の名を知った。

このほど岩原 侑著「青い目の近江商人 ヴォーリス外伝」を読んだ。簡単に紹介することは容易ではない。
1880年 カンザス州レブンワースに生まれる
1905年 キリスト教の布教を目的に来日。滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)英語教師として着任
1907年 布教に熱心の余り、周囲と摩擦。失職。
1908年 建築事務所を開設
1910年 建築設計監理会社「ヴォーリズ合名会社」設立。近江基督教伝道団(近江ミッション)、後の近江兄弟社を結成。(メンソレータム、メンタムの製造販売などに発展する)
1919年 子爵一柳末徳の令嬢、一柳満喜子と結婚
1941年 一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名。日本に帰化。同年、太平洋戦争勃発。以来軽井沢に滞在1946年 活動再開
1957年 くも膜下出血
1964年 死去

近江兄弟社とメンタムのことは知っていた。10数年前西国33箇所巡りで近江八幡市に行ったときバスの窓越しに近江兄弟社の看板を見てそのことを思い出したことがあった。この宗教心にあふれる行動と大学時代に習い覚えたアメリカ建築の知識を活用した事業展開を車の両輪として日本に生涯骨をうずめ、数々の美しい建物と人の輪を築いていった。
終戦時、連合国と日本政府の間に入って、天皇の人間宣言などを導き出した秘話を今回初めて知って驚いた。NHKで折しも白州次郎特集を取り上げているが、丁度その時に帰化した元アメリカ人が同じ幼少時をカンザス州レブンワース市で過ごしたマッカーサーと連絡を取れる立場にいたことも日本にとっては奇縁だったようだ。マッカーサーとは同じ年に生まれ、死んだ年も同じという不思議を体現したことも興味深い。

一度、ゆっくり近江八幡市を訪れてみたいものだ。
参照
ウィリアム・メレル・ヴォーリス 一粒社ヴォーリス建築事務所 ヴォーリスミュージアム

2009年9月12日土曜日

浅田次郎:「鉄道員」

8編からなる短編集。冒頭の一編があの映画にもなった「鉄道員(ぽっぽや)」であった。しかし、読後感として1番ホッととさせてくれたのは最後の「オリオン座からの招待状」だった。壊れかけた、だけど本当は繋がっていたかった中年夫婦に昔育った西陣の古い映画館から閉館記念の映画会の招待状が届く。そこからじわじわとほどけていくしこり。過去と現在を結ぶ確かなしかし形のない思い出・・・。シネマパラダイスを思い出すような佳作といえるのではないだろうか?解説で北上次郎がこれらの短編のどれが良かったかを話し合うと、仲間内では「鉄道員」派、「ラブレター」派、「角筈にて」派、と「うらぼんえ」派に分かれるという。強いて言えば自分は「角筈にて」派だなとは思うが、やはり「オリオン座からの招待状」派ということにしておきたい。浅田次郎のあとがきではこれらの短編集は「蒼穹の昴」を書き上げた直ぐ後に、心のバランスを取り戻すように一気に書き上げたもののようで、そのエネルギーも凄いが、人生の色んなものを溜め込んできて、良い具合に醗酵させて吐き出したような充実感が文章に漂っているようで良かった。これまであまりに流行作家的で手にするのに抵抗を感じていた作家だったがじっくり付き合ってみようと思う。

2009年9月11日金曜日

業務再開

有限会社を解散したが業務は個人事業主(いわゆる青色申告)で継続している。
主な業務は以下のような事を想定している。

ホームページの関係では
提案、作成と保守、ドメイン取得代行やレンタルサーバーの契約代行など。
メールアドレスの管理などレンタルサーバーの利用に伴うサービス代行など。
パソコンのリテラシー関連では
初期設定、アプリソフトの導入、利用法の教育など。
パソコンのホームドクター

2009年9月4日金曜日

老にして学べば

少なくして学べば則ち壮にして為すことあり。壮にして学べば則ち老いて衰えず。老にして学べば則ち死して朽ちず。(『言志晩録』第60条の言葉で「三学戒」というらしい)

<font size="2" face="MS 明朝" color="#494949">人は、幼少の頃に学ぶ楽しさが身につけば、大人になった時、社会の役に立つ人物となる。</font><font size="2" color="#494949">
30歳を過ぎて学ぶ意欲が心の底から湧き出せば、中高年と言われる年代こそ日々の人生が充実し、周囲を明かるくするものだ。
70代、80代で学ぶ人は、今までの人生経験に輝きが増し、後世の人々に大きな目標・理想の炎を燃やし続けさせる人物となる。</font>

これは<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%B8%80%E6%96%8E">佐藤一斎</a>の言葉、と読み知った。
唐突に持ち出したその訳は、今度「水彩画」を習い始めた。70の手習いだ。絵筆を手にしたのは中学生以来といってよい。実に55年振りだ。しかしこれが中々楽しい。思うようにはまったく行かないのだけれど、所々で納得のいく色が出た時とかに心の中で密かに快哉を叫ぶ。自分の下手なゴルフのラウンド中に得るあの感触、といえばわかってくれる人もいるのではないか?

9月3日、横浜山手のイタリア庭園でブラフ18番館を写生した。いわゆるデビューだ。先生にスケッチのイロハから手ほどきを受けた。これからが楽しみなような、苦しみの始まりのような・・・しかし、ゴルフのときに比べれば楽しみへの期待が強いような気がするのが救いといえるのではないか。

2009年9月2日水曜日

映画:「湖のほとりで」

イタリア映画。北イタリアの山奥の湖畔で起きた殺人事件を追う老刑事、トニ・セルヴィッロが良い味を出していた。イタリアのアカデミー賞にあたるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で史上最多の10部門独占の快挙をやってのけたというので、観にいった。他人のことは本当に判らないものだ。刑事というのは大変な仕事だなぁと他人事ながら同情する。今年から始まった裁判員制度でも同じことが言える。人を裁くということの重みを感じる。そんな思いで老刑事の心境に立ってみてしまった。<a href="http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD14655/">参照</a>

2009年9月1日火曜日

中央線の車内広告

昨日中央線に乗って何気なく、車内広告のディスプレイを見ていたら、見慣れた風景が目に飛び込んできた。「おゃ・・・、見たような・・・」と思いながら見続けると、何と自分の自然観察のバロメータにしている近所の公園ではないか?少なくとも中央沿線ではより多くの人々に知られ、訪ねられる公園の1つになりそうだ。嬉しさよりも一寸心配の方が大きいかな?その名は「片倉城跡公園」。

吉田修一:「永遠(とは)と横道世之介」

 横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...