2015年3月31日火曜日
サクラシーズンの幕開け2:飛鳥山
江戸一番の花見の名所、飛鳥山。落語にもよく出てくるので名前は知っていてもこれまで一度も訪れたことはない。ここには渋沢栄一名残の建物もあり中々の見どころのあるところでした。
2015年3月30日月曜日
サクラシーズンの幕開け1
3月30日、国際基督教大学のサクラを描きに行ってきました。桜は4~5分咲きといったところでしょうか?前に行ったのは5月の連休閑散としていましたが、今回は家族連れも沢山。隠れた花見処ですね。スケッチしていると何と結婚披露宴らしく花嫁花婿が・・・。ここは同窓会会館だとか。納得の情景でした。
2015年3月28日土曜日
2015年3月27日金曜日
金沢3:長町辺り
見違えるように整備された長町辺り。黄土色の土塀が続き、用水の水が勢いよく流れている。昔より垢抜けしていてちょっと他所の町のような雰囲気。水の流れや用水の川幅は昔のまま架かる橋も昔のままの佇まいでした。
2015年3月26日木曜日
金沢2:主計町(かずさまち)
久し振りに市内観光は主計町。「かずえまち」と呼びます。金沢城の大手門から僅か数百mしか離れていませんが東の茶屋街として栄えていたそうです。今も、「木虫籠」(きむずこ)と呼ばれる紅柄の格子窓と石畳が残っています。五木寛之の「浅野川暮色」で一躍有名になった処ですが、この日はそこから200mほど離れた浅野川の川向こうにある東山ちゃや街の混雑ぶりがうそのようにひっそりしていて良かった。
2015年3月25日水曜日
金沢へ
北陸新幹線開通後、所用で金沢行きが実現しました。揺れも少なくこれまでに比べ2時間ほど時間短縮ができ快適な旅でした。
降り立った金沢駅前が今まで見たこともないような混雑ぶりで驚きました。新幹線効果は絶大のようですがここまでのフィーバーを見せ付けられると後がチョッピリと心配になりました。
降り立った金沢駅前が今まで見たこともないような混雑ぶりで驚きました。新幹線効果は絶大のようですがここまでのフィーバーを見せ付けられると後がチョッピリと心配になりました。
2015年3月17日火曜日
多摩の春
多摩に住み着いて何年になるのだろうか?確か、初めてのオイルショックがあってトイレットペーパーの争奪戦があったその頃、勤務先が川崎から中央線の豊田駅近くに変わることになった。それまでも仕事の中で何度も訪れていた地域でしたが、まさかそこに樹居を移すことになるとは想像していなかったので改めて豊田の町や八王子の街を全く違った目で見直したものでした。どう見直そうと転勤しなければならないのはサラリーマンである以上否応ないことでした。1年ほど会社が用意してくれた棟割長屋のような借り上げ住宅に入居して街や近隣の新規開発されている住宅団地などを見て廻りました。所得の限られている中で頑張れる最上とも思われたのが今住んでいる団地でした。当時はまだ売り出されて第何次募集とかいう宣伝文句に惹かれて見て廻りようやくの思いで入手したのが今の住処です。当時は近隣に立っている家も少なくて見回す限り住宅予定地でした。メインの通りでは年に数回は野兎やタヌキなどが車に轢かれるというような事故が起き、多摩丘陵の動物の住処が人に奪われていく様を目の当たりにするような状況で罪悪感に襲われるようなこともありました。それでも住み着いてみると近隣の野山や公園を散策するにつけ多摩の自然の豊かさや自然と共に咲く山草の数々にだんだん魅了されていきました。余り手入れしていない小さな庭に何時ともなく多摩の山野草が住み着き始めたのでした。勿論、高尾山に登ってその帰りに駅で買った山野草が育ったものも幾つかはあります。が、それ以外にもいつの間にか住み着き、定住した山野草も幾つかはあるのです。アズマイチゲ・・・これが自生のものに加え、東北の角館で手に入れてきたもので多摩地区に自生するアズマイチゲより少し大振りで色も白や薄紫の菊のように花弁の多いものですが、これらが混在して庭に住み着いています。
通信回線をドコモ光に
フレッツ光回線を契約して1年と2か月、今度はドコモ光に乗り換えました。両社ともに根っこはNTTですから乗り換えも簡単。ネットで乗り換え承諾番号を取得すればその場でドコモパックに変更手続きを終えることができました。来週23日から切り替わるのですが、その間光モデムは勿論、ケーブルの交換もありません。そして価格は2000円強/月節約できます。嬉しいですね。年金がどんどん減っていく中で通信費は非常に負担の大きい費目となりました。いつの間にか時代に遅れないように文明の利器を使っていると通信費が掛かるようになってきていたのです。
2015年3月16日月曜日
金沢に朗報重なる
日曜日は北陸新幹線開通2日目だが、それを祝福するかのような祝砲が2発打ち上がった。1つは20km競歩で石川県出身の鈴木選手が金沢で世界新記録を樹立したというニュース。そしてもう1つは同じく金沢の競技場で行われたJ2リーグに今年昇格した「ツェーゲン金沢」が東京ベルディを相手に3-0快勝、初勝利を挙げたこと。若い力の爆発が何とも心地よい。余談ですがこのサッカーチームの名前、「ツェーゲン」の語源というか、意味は分かるでしょうか?どこの言葉(何語)でしょうか?この答えは・・・・
純粋の日本語、金沢の方言です。その意味は「強いんだよ!」という意味の口語(方言)です。「強えーんだよ」から「つえーげん」と訛っているのです。因みにローマ字表示ではzweigen-kanazawaとドイツ語風に書くことになっているようです。表立ってはzwei(チームとサポーターの2つ)-(で)gehen(前進しよう)というこじつけになっています。面白いでしょう?
純粋の日本語、金沢の方言です。その意味は「強いんだよ!」という意味の口語(方言)です。「強えーんだよ」から「つえーげん」と訛っているのです。因みにローマ字表示ではzweigen-kanazawaとドイツ語風に書くことになっているようです。表立ってはzwei(チームとサポーターの2つ)-(で)gehen(前進しよう)というこじつけになっています。面白いでしょう?
2015年3月14日土曜日
北陸新幹線開通
今朝から北陸新幹線開通のニュースで沸き返っていた。それほどの大騒ぎすることでもないとは思うが、自分の故郷へのアクセスがこれまでに比べると格段に容易になるのはうれしい。来週には金沢に行く用事があって早速この恩恵を体験できるのはわくわくする気分だ。その時にはまた感想を書けるだろう。
2015年3月13日金曜日
池永 陽:珈琲屋の人々
昭和30年代、「3丁目の夕日」的な香りのするお話。レトロな珈琲屋をやっている男とそこに居つく猫の子のように出入りする女、この2人は同級生でいい年になっているのに何か曰くあり気。そこに出入りする来客を巡る話が段々にこの珈琲屋の店主の素性を解き明かしていく。危うい人生を渉る人々がこの店主の熱いコーヒーに心を溶かされ、人生の道を踏み外そうとする瀬戸際で救われる。この小説自体が佳い話と三文小説との境目のような危うさを持っているような気がした。ちょっと生意気か?
2015年3月11日水曜日
2015年3月9日月曜日
常盤新平ー遠いアメリカ展ー
町田市民文学館「ことばらんど」で1月から開催している展覧会にようやく行くことができた。この人の展覧会が何故町田で開かれることになったのか、不思議でならなかったが今回、展覧会を訪ねてようやくその謎の一端に触れることができた。氏は宮城出身で早稲田を苦学して出た後、早川書房に入り、その後、「遠いアメリカ」で直木賞を受賞。この青春時代から世に出るまでの自叙伝が「遠いアメリカ」だった。鬱々とした青春(無頼の)時代を親の仕送りでしのぎながらLIFEやペーパーバックスでアメリカに憧れ、ハンバーガーやコカコーラ、クリネックスといった単語に未知のアメリカの消費文化を思いやり憧憬を重ねてきた。氏が2013年(平成25年)1月22日、肺炎のため東京都町田市の病院で亡くなっていたとは不覚にも知らなかった。81歳没。我がブログを紐解くと2013年2月に「明日の友を数えれば」の読後感を書いていたが、当然全くその死を知らなかったことが判る。町田には晩年の20年を過ごしたということも。翻訳物では「ウォータゲート事件」などでも名高い。数々の随筆もの、やはり特に古き良きアメリカへの憧れを描いたものに独特の郷愁を感じる。この1月に展覧会を開いたという意味を感じてしまった。合掌!
2015年3月8日日曜日
ウグイス
今年もウグイスがやってきました。最初に気が付いたのは4日前、3月4日でした。2月の末ごろから気にしていたのですが聞き取れずにいました。毎年この頃にいつも確認できているのです。しかし今日のように寒い日には鳴き声は聞こえません。暖かい朝に啼いているのを聞くと本当に嬉しくなります。ですから2月でも暖かな日にはきっと鳴き声を聞くことができるのだと思います。今年は寒いと感じる日が多かったのでしょう。我がブログで「ウグイス」をキーワードにして検索すると殆んど3月の1ケタ台にウグイスのことを書いています。2月に聞いたと書いたのは2回しかありませんでした。「啓蟄」が3月6日ですから小鳥はもっと早く季節を感じ取ってやってくるのでしょうね。ひょっとしてウグイスは穴から出てきた虫を啄ばむためにこの頃にやってくるのかも、あるいは関東の気温が旧暦の二十四節気と合致しているのかもしれませんね。
2015年3月7日土曜日
2015年3月1日日曜日
長谷川郁夫:「吉田健一」-2
吉田健一は1912年生まれで、承知の通り吉田茂と雪子の長男として生まれたが生後母雪子は単身赴任の茂の元、ヨーロッパに出掛けた。6歳まで母方の祖父である牧野伸顕に預けられた。学習院初等科に入学直後から父に従って青島、ロンドン、パリ、天津と転々し、1926年14歳で日本に戻り、暁星中学に転入、1930年卒業後、ケンブリッジ大学に入学し1931年3月、わずか1年で退学し日本に戻ってきた。しかしこの1年の大学生活で多くの学究と交わり、多くの本を読み、日本の伝統と文学に没頭すべきと考えての退学帰国であったらしい。父、茂は大いに落胆したらしい。外交官の道を放棄し、無頼ともいえる文学の道に進むと言い出した長男を前にしてそれは当然だったろう。祖父牧野伸顕は大久保利通の二男、岩倉遣欧使節団にも加わっていた明治維新から第1次大戦そしてその後は宮内庁内大臣として、時の政権と皇室との?ぎ役に徹したオールドリベラリストであった。吉田茂までを含め正に維新後の政治権力の中枢を歩んできた家系であったからだ。牧野は1949年なくなるが、晩年千葉柏市の住まいを茂が度々訪ね、教えを乞うたことが知られている。また憲法草案についてGHQと皇室との橋渡しにも尽力したことで知られる。
こういう背景もあり、吉田健一の著作や言動がその育ちを随所にさりげなく見せていることから興味の募る部分も多い。しかし若干19歳、著作もないのに文学を志すということの意味も判らないが健一は評論という道を選んだようだ。それしかない、必然の選択かもしれない。そして英米の著作の翻訳をしながら、日本の文学、哲学などの評論を通して自己主張を展開し始めたようだ。河上徹太郎を師とし小林秀雄、山本健吉、武田泰淳などと交わり次第に認知され出した。大半は銀座の長谷川という文士の溜まり場で酒を通しての付き合いだったようだ。1941年の開戦前後の混沌とした時代、父茂は大戦回避に向けた工作に奔走していた様子が活写されていて興味深かった。戦局が1942年のミッドウエー沖海戦で致命的な敗北を喫する辺りまで読み進んだがここでいったん返却しなくてはなるまい。ようやく全体の1/3、健一に召集令状が来るのか来ないのか、食糧難の中をなおも銀座で飲み歩く健一の先が読めない。
こういう背景もあり、吉田健一の著作や言動がその育ちを随所にさりげなく見せていることから興味の募る部分も多い。しかし若干19歳、著作もないのに文学を志すということの意味も判らないが健一は評論という道を選んだようだ。それしかない、必然の選択かもしれない。そして英米の著作の翻訳をしながら、日本の文学、哲学などの評論を通して自己主張を展開し始めたようだ。河上徹太郎を師とし小林秀雄、山本健吉、武田泰淳などと交わり次第に認知され出した。大半は銀座の長谷川という文士の溜まり場で酒を通しての付き合いだったようだ。1941年の開戦前後の混沌とした時代、父茂は大戦回避に向けた工作に奔走していた様子が活写されていて興味深かった。戦局が1942年のミッドウエー沖海戦で致命的な敗北を喫する辺りまで読み進んだがここでいったん返却しなくてはなるまい。ようやく全体の1/3、健一に召集令状が来るのか来ないのか、食糧難の中をなおも銀座で飲み歩く健一の先が読めない。
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吉田修一:「永遠(とは)と横道世之介」
横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...
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2017年の夏、水をやり過ぎたのかみるみる萎れていった鉢。どうなることかと元気そうな株以外は全部、泣く泣く外して生き永らえた。相模原に引っ越して気長に付き合ってきた甲斐があって去年夏ごろから生気が帰ってきていた。水溶液の肥料などをやりながら時に日光浴させてきたら3年振りに開花した...
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この日もぽかぽか陽気の暖かな日だった。 多摩モノレールで立川の1つ手前、「柴崎体育館前」で下車して高架から下に降りると、もうそこが根川親水公園だった。湧水が作り出す小川を整備して遊歩道に仕立ててくれている。絶好のスケッチポイントだった。驚いたことに大通りのすぐ脇の高木にアオサギ...
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NHKカルチャーセンター主催の水彩画講座(2時間*3回)の第一回を受講しました。これまで無料のZOOMアプリを使って家族やNPOのリモート会議を何回か体験してきました。また、NPOで開催しているシルバーの人たちに向けてZOOM会議の受講の仕方、主催の仕方などの講義をしてきました...