2019年9月30日月曜日

軽井沢(9月29日)

前日から天気予報がどんどん変わり、雨模様が晴れに変わり、暑さもぶり返してきた。日中は日の光の下28度近くまで上昇した。碓氷峠側の見晴らし台への遊歩道はまだ緑一色だった。

2019年9月26日木曜日

テレビドラマ:やすらぎの刻「道」

脚本:倉本聰の昼ドラだ。2018年にも半年ほど「やすらぎの郷」というタイトルで続き、今年はその続編という形でウィークデーに放映されている。このやすらぎの郷というのは元、テレビ業界の発展に寄与した人たちで何らかの理由で普通の社会で生きていくよりもこのユートピアのようなところでゆっくりと余生を過ごす、というコンセプトで作られた養老の郷だ。そこでの生き様が現役時代を写し取るようなものでいろんなエピソードが語り続けられた。これが結構面白かった。芸能界には元々あまり関心もないので知らないことも多かったが、かつての名優が次々と出てくるのが楽しかった。主人公は倉本聰本人をモデルにしたのかもしれない石坂浩二演じる菊村栄が好演している。「やすらぎの刻」は2番煎じのような感じだったので前評判も現時点での評価も恐らくあまり高くはないのではないだろうか?その傾向は強く感じる。ただ、今年のドラマではその菊村栄が劇中で公開することを全く意識することなく楽しみに書き始めた戦前から戦後にかけた昭和を回顧するシナリオを描きだすのだがこのシナリオをそのままドラマにしているのだ。同時並行的に2つのドラマが進んでいく画期的な試みといってよいのではないだろうか?この昭和史のドラマ自体が面白いのだが、この同時並行型の2つの物語がどう交わっていくのかにも興味が集まる。そうしないとこのドラマは成功を収めるということにはならないのではないだろうか?

2019年9月21日土曜日

ラグビーワールドカップ開幕(9月20日)

第20回ラグビーワールドカップが開幕し、日本は開幕戦を鮮やかな松島選手の3トライを含む4トライで勝ち点5を挙げた。予選リーグは5チームから上位2チームが決勝リーグに進出できる。世界No.1のニュージーランド、アイルランド、サモア、ロシアという強豪国の中、唯一ランキングで日本が上回るのがロシアだったから、昨日の一戦で勝たないと興味が繋がらない可能性もあり、重要な戦いだった。出だしでは日本チームに緊張からくるミスが相次いでロシアに先行されたが、その後追いつき前半終了間際で逆転に成功してからは落ち着いて本来以上の力を発揮したように見えた。今後の戦いへの興味が高まった。このラグビーという競技だが発祥の地はイギリスだがワールドカップの歴史は1987年が第1回と歴史は浅い。同じ競技発祥の地はイギリスなのにサッカーはワールドカップを1930年から始めて既に21回開催されている。どうしてこんなに大きな違いが出たのだろうか?それは宿題にして置くとしてこれも以前書いたかもしれないがイギリス発の2つのひねくれたスポーツ、方や手を使ってはならないサッカー、もう一つは楕円形のボールを使い、しかも味方にパスするときには前方にパスしてはならないというラグビー、これらを生んだイギリスという国が面白いではないか!
もう一つ、ラグビーはオリンピックには参加しないと決めているらしい。尤も7人制ラグビーがオリンピック種目に採用されたらしいが。こうした徹底した反逆精神が息づいているということが多様性があって面白いと思う。さらにラグビーの面白いことは国(民)対国(民)の国籍主体の競技ではなく、その国に住んでいる人々同志の戦いという形をとっている所属協会主体の競技だということだ。だから代表選手の国籍が問われることはない、その国に居住していれば良いのだ。勿論一定の条件がある。
  • 出生地が当該国である
  • 両親および祖父母のうち一人が当該国出身
  • 当該国で3年以上、継続して居住している
だから今回の日本代表でも外国籍の人は10人だそうです。今回の出場国でも外国籍の人の人数はサモアでは15人、アメリカで12人、イタリア11人、トンガ9人、イングランド8人、オーストラリア、スコットランドが7人と混合度は高い。こういうルールになったのも元々はイングランドとスコットランドの対抗戦を行おうとすると、国同士の融合度が高くて国籍で選別することが不自然だったからだという。United Kingdom(大英王国連合)中心で発展してきたラグビーの歴史を背負っているルールではあるが、昨今のダイバーシティ(多様性)重視の流れにはマッチしているともいえる。こういう流れが強ければ、アラブ・イスラエルの紛争や人種差別感を薄める効果も高く、紛争の種を大きく減らすことにつながるのではないだろうか?「ラグビーが世界を救う」ことになってくれれば良いなぁ・・・。

2019年9月18日水曜日

ボルダリング

雨の夕暮れ、近所を散歩した。一寸いつもと違うコースを取ることにして路地を歩き回っていたら、偶然ボルダリングのスタジオの前に出た。以前チラシでそんな情報を見た覚えがあったのだが、まさかこんなところに・・・家からほんの50mと離れていない。にぎやかな声がスタジオから漏れてきたので思わず、立ち止まって中を覗き込んだ。コーチと思しき人が出てきて、「ちょうど子供たちの教室が開かれているんで、良かったら見学していって下さい!」と声を掛けられ、テレビでしか見たことのないボルダリングでの練習風景を見学させて頂いた。小学生たちが5~6人元気に登っていた。カラフルでいろんな形の突起物がカベに固定されていてそれを伝いながら最上部のゴールを目指すものだ。子供たちにとっては木登りにも似た楽しい冒険に違いない。
通りから見えた室内
挑戦中の子供たち

2019年9月14日土曜日

仲秋の名月

昨日が仲秋の名月だったが曇り空で見えなかった。今夜は晴れてよく見える。月にはウサギが住んでいて餅つきをする図柄が良く説明されるがどう見ても、どこから見てもそれらしき姿がイメージできない。
ウサギの餅つきを解説した画像をダウンロードしてみた。実際の写真を20度ほど反時計回りに回してみると一寸説明に近づくのかな?

元の画像

反時計方向に35度回転させると
ウサギの説明画像

2019年9月13日金曜日

バレエ鑑賞(9月8日)

第116回小林紀子バレエ・シアター公演『ミックス・プログラム』を鑑賞した。去年のクリスマスの時以来2度目の小林紀子バレエ鑑賞だ。テニス仲間のMさんのお嬢様が楽団員を務める東京ニューフィルハーモニック管弦楽団が演奏を務めるご縁でお招きを頂いた。
*演目1: 『コンチェルト』 ―“卓越したマクミランのインスピレーション”
ケネス・マクミランという名振付師によるもの初演から半世紀を迎えた現在もなお、ロイヤル・バレエの重要なレパートリーとして再演を重ねている、という。
*演目2: 『レ・パティヌール』―“マーゴ・フォンティン生誕100周年記念にあたって“
1937年2月、サドラーズ・ウェルズ・バレエ団(現在のロイヤル・バレエ団)によって初演されたというから83年前の作品だそうだ。初演を踊ったマーゴ・フォンティンはうっすらと聞いたような気のする名前だったので調べてみると、1934年デビューしたブラジル人の父とアイルランド人の母の間に生まれたエキゾチックな容姿で注目され、1935年にはプリマ・バレリーナとなり、40年ほどもプリマを務めた伝説的なバレリーナのようだ。*演目3: 狂騒のラグタイム―『エリート・シンコペーションズ』
がらりと趣の変わったミュージックホールの雰囲気の中でダンサーたちが思い思いに自己主張するクラシックバレーとは全く違う踊りを展開してくれて楽しかった。
至福のひとときを有難うございました。
この日は夜半からは台風がやってくる、出掛けには強烈な通り雨が降り、帰宅時の荒れ具合が気になりながら雨対策をしたうえで出かけたが幸いにも往復共に雨にも遭わず帰宅できた。これもラッキーなことと感謝!

2019年9月12日木曜日

民主主義の揺らぎ(1)

先ごろフランスで行われたG7、共同宣言を出すことができずに終わった。主要民主主義国家が7か国集まって、これからの経済社会の指標を掲げ、「これからこうしていきましょう」と宣言することを年中行事にしてきた。最初は経済が主題だったが後には、環境問題、抑圧への警鐘、といった広い分野での宣言を行ってきた。それがトランプ大統領の登場と共に怪しくなり、今年は遂に共同宣言を出せずに終わったのだ。自国の利益だけを第1に考え行動する指導者の下では理性が働かなくなるのは当たり前。強者が弱者を従えて当たり前の世の中になってしまった。元々資本主義経済社会というものは強者が弱者を駆逐していくような仕組みを備えているのだが、それに歯止めをかけるのが民主政治であり、抑制作用が働くようにリードしていくのが政治の役割だったと思う。トランプ政治にはそれがない。更に差別的な考えを表に出して弱者への配慮を欠いてしまっている。白人至上主義への回帰、敵対的なものを作り上げることにより自分の立場を鮮明にする排斥的な姿勢は世界の指導尾者として全く不適格と言わざるを得ない。ところがそれがアメリカでだけ起きたことではないことに根深い懸念が生まれている。世界的にこのような現象が蔓延し始めたのだ。どうしてだろう?21世紀がどんな世紀なるのだろうかとミレニアムという言葉を聞きながら秘かに期待感を持ったのは自分だけだっただろうか?皆、なにがしかの期待感をもって新たな世紀を迎えたと思うが、その期待感を裏切られたように感じている人々も多いのではないだろうか?21世紀がこんな姿を取ることになるとはだれが想像したでしょうか?

2019年9月7日土曜日

長寿社会の横顔

長寿社会の中で年寄りであることを自虐的に捉える川柳的なものや長寿者そのものが堂々と第一線で活躍する方々の作品などが今世の中にあふれ出している。
●自虐的なるもの(1例)
・病は分身 薬はごはん 医師は恋人(作者不詳、友人からの情報)
・他に数多アリ・・・追々紹介します。
●後藤比奈夫(大正6年生まれ、当年102歳)・・・・俳人
「瀧の上に水現れてすぐ落ちず」
「敬老の日をうとうとと過ごしをり」
「いちにちは長く短し沙羅の花」
「新暦(しんこよみ)百歳以上には触れず」
●小原啄葉(大正10年生まれ、98歳)・・・・・・・俳人
「さよならの一語重たき敬老日」
「円卓を回され海胆を逃したる」

2019年9月6日金曜日

小田嶋隆、岡康道、清野由美:「人生の諸問題五十路越え」

日経BPオンラインで掲載されたものの単行本化。小田嶋と岡はどうやら都立小石川高、早稲田大学の同窓生にしてエッセイストだったり、広告代理店であったりの謂わば同業者にして、尚且つ麻雀友達。この二人の青春時代からこの方、同じ時代、同じ学校で過ごし、似たような業界で五十路まで過ごし、共有しているものの多さで対談させると話は尽きることなく脱線していく。それを編集者である清野が話を時に煽り、時にいなし、時に腰を折り、50過ぎたらどう生きたらよいかという目標に向かおうとするが容易には進まない。本人たちが時代・事象をどう受け止めたか、どう受け止めたらよかったのかを語りながら今後の処世の足しにしようということなのだろう。元々、小田嶋のエッセイは日経ビジネスオンラインで折に触れて読んできていたので、どんなことを話しているのかという興味から手にした。この種の本は図書館には置かれていなかったので、今はやりのメルカリで購入した。そして読み終わったのでまたメルカリに出品した。何と、12時間後には次の読み手が購入してくれた。恐るべし、フリーマーケット!!


吉田修一:「永遠(とは)と横道世之介」

 横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...