2022年6月28日火曜日

原田マハ:「旅屋おかえり」

 礼文島に生まれ、小さい時から海を渡ってくるアザラシやイルカの群れを見て育ち、漁師の父に「あの海の向こうに何があるの?っと訊ねていた。そして高校の修学旅行でスカウトされ、小さな芸能事務所に所属する。そして今は人情味厚くはあるがコワモテする萬鉄壁社長と二人だけでレギュラーの旅番組を1本だけにしがみついている日々。しかし番組中にスポンサーの商品名を不明瞭な発音でしたためライバル会社の商品名に聞き間違えられて即刻、放映打ち切りとなり無職に転落した丘えりこ。おかえりさんの名前で一部の人たちからは絶大な支持を受けていたのだ。ひょんな事から旅の代行を頼まれ、新たに「旅屋おかえり」という旅行代行業という奇妙な仕事を始める。依頼者の事情をヒアリングし、どこへ、どんなふうに旅してほしいかを聞き、成果物はどういう価値にするかを取り決めながら旅をし続ける。そしてある時、勝手のスポンサーの社長から意外な依頼を受ける。その依頼内容を通して、社長の知られざる過去を知ることになり感動の顛末を作者の筆は滑らかに進めていく。読んでほっこりする一冊だった。

2022年6月25日土曜日

高田郁’「あきない世傳金と銀」(11~12) 

 コロナ下での執筆で2022年2月18日、最新版(第1版)が出版された。完結かと思っていたがどうやらまだまだ続きそうだ。関係ないことだがこの日は私の誕生日に当たる。これも何かの因縁かもしれない

伊勢から大坂に出てきて古着商から身を起こし、2代目で呉服商にまで成長した。2代目亡き後、その奥さん富久が奉公人に、そして幸に言い聞かせてきた家訓がこの五鈴屋の経営理念だ。それは
「買っての幸せ、売っての幸い」で言えば訪問販売を主にしていたため、顧客の付き合いも古く長い。その中の学者たちか商いの心得を菜根譚から書にして渡してくれる。
・哀颯的景象 就在成満中
 発生的機縅 即在零落内

衰退の兆しは隆盛の時に始まり、芽吹きは葉が枯れて落ちる時に始まっている。だから君子たる者は、繁栄している時に、後日の異変に備え、困難に遭遇したときは、ひたすら耐え忍のんで初志を貫つらぬかねばならない、と。

7代目の店主としての幸は、江戸店を引っぱって10年、ほどほどの手ごろな呉服の店前現金商いで成長し、仲間内から足を引っ張られて呉服の扱いを絶たれ、その後は太物(木綿)だけで知恵を絞り、新たな浅草太物仲間の中で信頼を獲得して晴れて、浅草呉服太物仲間という組合になることを幕府から承認を取り付け、新規に武家相手の商売も広がり始めた。手代の健輔(5代目までの番頭、治兵衛の息子)に9代目を託していて、ようやくそれを引き受けるまでに傾聴し、経験を積んできた。順風万般とはいえ、逆にこれまでの木綿という庶民のための布の商いからは高級呉服(絹織物)は敷居の高い商品であり、大店でもない五鈴屋は店の基盤をどこに置くべきか迷ってしまっている。

最後のところでまた新たな戒めの言葉をもらう。

未有根不植 而枝葉栄茂者

商いの根っこが揺らいでいる状態では、幹が太くなることも枝葉が健やかに伸びることも難しい、という意味であろう。次号は今年の暮れぐらいだろうか?今後の展開が待たれる。


2022年6月24日金曜日

鎌倉便り:「大功寺」の花々(3)

最後第3弾は自信のない花々。

 

ミッキーの木(オクナ・セルラタ)

ヤナギハナガサ

不明

アマギノグサ?

紅ヤマアジサイ
(エゾノ)キリンソウ

でした。また今度訪れて新たな花々に出会いたいものだ。

2022年6月19日日曜日

鎌倉便り:「大功寺」の花々(2)

う鶴岡八幡宮に至る段蔓のある通りを若宮大路といい、その東側に小町大路というのがあってその道から東側を大町と呼ぶらしい。かっては大きな町家が連なるところだったらしい。大功寺はだから小町に存在する寺ということになる。このお寺の境内を東西に通る小径はさながらミニチュアの植物園のように多種多様な花々に埋め尽くされている。その中からいくつか珍しかったものを以下に紹介する。

紅ガクアジサイ

ハクチョウゲ

ヒメオウギスイセン

インドハマユウ

ノリウツギ

半夏生

まだまだ続けたいのですが、花の名前の同定に時間が掛かります。上に紹介したものも間違いがあるかもしれません。随時訂正します。続きはまたのお楽しみに!



2022年6月18日土曜日

鎌倉便り:「大功寺」の花々(1)

 鎌倉駅から一番近いところに建つお寺ではなかろうか?目抜き通りの鶴岡八幡宮に通じる段蔓のある通りに面しているが間口が狭いのでうっかりすると素通りしてしまいそうです。それもそのはず、どうやらこのお寺の裏口に当たるところのようで、正門は裏側の通りにある。

正面に回ると本堂をいう城に晳中2本が建っていて入り口を指示している。

そしてこの2つの入り口を結ぶ通路がどうやら裏通りとの間の抜け道として地域の人たちに利用され愛されているようだった。その通路の両側によく手入れされた数多くの花木や草花が植えられていて、しかも丁寧に草木の名前が小さな名札で我々に教えてくれる、カメラを構えていると地域のご近所さんが「綺麗でしょ。よく手入れされていて気持ち良いですね。良い写真を撮ってくださいね」と声がかかる。そんな優しいお寺さんだ。ここに珍しいアジサイがあるという情報を見付けての今回、2度目の訪問だった。先ずはお目当てのアジサイを紹介しよう。



岩や木の幹に蔦のように気根を出して伝って登っていく。類似の種類につるアジサイというのもあるらしい。これを見ていて、以前尾瀬沼に行ったとき桧枝岐村との間の樹林に大きなアジサイの塊が幹を登っているのをバスの車中から見たことを思い出した。イワガラミかつるアジサイかのどちらかったのだ。懐かしい気がした。地味ながら可憐な一片の白いがくが愛らしい。大功寺の表から裏までの30ḿほどの小径は多くの草花であふれている。次回以降その他の花々を順次紹介していきたい。







2022年6月17日金曜日

鎌倉便り:横須賀線と鎌倉駅

 鎌倉は三浦半島の付け根西側にあります。鎌倉北条時代の首都であったことは言わずもがなだが、その後は結構さびれてしまっていたらしい。しかし、徳川幕府になってから家康をはじめ歴代将軍は武家政治の始まりの地としての鎌倉を大切にし、寺社仏閣を数多く再興して力を貸したようだ。幕末、黒船来襲と共に三浦半島は江戸への入り口に当たる横須賀に注目し、海軍の鎮守府を設立し、造船所など関連施設も作られた。東京と横須賀を結ぶホットラインとしての鉄道も重要な路線として早期の開通が望まれた様で、そういう建議書がのこされている。そして1889年6月16日に大船駅  横須賀駅間に鉄道が開通し、同時に鎌倉、逗子、横須賀の各駅が設置され、一躍東京の別荘地、保養所として開けていきます。将官の住宅地も各地に開発されたらしい。一般国民から見ると東海道線がその前に開通しているので、大磯、鵠沼、藤沢、鎌倉、逗子、葉山と海岸沿いに大きな別荘が建てられ、海水浴場も開設されて東京から日帰りできる観光の価値に注目が集まったのも無理はない。1925年7月には全線が電化され、1930年3月には東京駅 - 横須賀駅間58.2km で電車運転を開始された。

湘南発祥の地は大磯と言われ、大磯、藤沢市鵠沼、鎌倉、逗子、葉山が主に別荘地域として形成されていきました。元々、大磯は宿場町として街道沿いに栄えていた場所であり、明治18年に日本初の海水浴場の設置が始まった地でもあります。明治35年には藤沢・江の島間の江ノ電の開通などを契機に別荘地として発展に拍車がかかりました。

横須賀線は大船から南北に走るので鎌倉駅は東口、西口と2つの駅舎に別れている。

東口は鶴岡八幡宮、小町通りに続く鎌倉駅の表玄関

西口はこじんまりとしたロータリだけの裏玄関というところか、江ノ電の表玄関ではある


西口に出て右側に時計台広場があり、修学旅行生たちの集合場所として終日にぎわっている

この西口に1899(明治32)年、鎌倉の大町(現・御成町)に明治天皇の皇女である富美宮、泰宮の避寒のための「鎌倉御用邸」が建設された。1923(大正12)年に発生した「関東大震災」で多大な被害を受けたこともあり、1931(昭和6)年に廃止された。
【画像は1912(明治45)年】

皇女二人のために造営された「鎌倉御用邸」
跡地には1933(昭和8)年、「鎌倉郡御成尋常高等小学校」(現「鎌倉市立御成小学校」)が建設され、御用邸の冠木門(かぶきもん)が校門(正門)として使用されている。 このことについては現状は先頃アップした「御成小学校あたり」の写真と比較してください。当時のままのものが使われていることがよく分かります。


https://smtrc.jp/town-archives/city/kamakura/p04.htmlから転用させて頂きました
調べるといろいろの歴史が分かって楽しい。








2022年6月10日金曜日

鎌倉便り:御霊(みたま)神社(権五郎神社)

 アジサイが旬の季節なので、時系列は無視して、ここを取り上げることにしました。

江ノ電の踏切のすぐ脇に御霊神社の鳥居が立っています。源頼朝の鎌倉入り以前からあった古い神社で平安時代の武士・鎌倉景正を祀る古い神社です。


はじめは関東平氏の鎌倉氏、梶原氏、大庭氏の先祖の霊をまつっていましたが、やがて後三年の役で活躍した武勇が名高い平安時代の武士・権五郎景政がまつられるようになりました。地元では「権五郎さま」と呼び親しまれています。景政のことは『保元物語』等に東北地方の金沢の柵(※1)の合戦で左の眼を射られながら答の矢を射返してその敵を討ちとった話が載っています。また、景政は鎌倉武士団を率いて湘南地方を開拓した領主でもあります。(以上、鎌倉観光公式ガイドより)



平素は訪れる人もほとんどいない静かな神社ですが、アジサイ時には人が一杯訪れます。アジサイと江ノ電の組み合わせが見られる絶好のビューポイントだからです。観光案内やポスターなどでも幾度も取り上げられてるカメラマン垂涎のスポットでもあります。自分もカメラを持って出掛けました。大勢のカメラマンがいて中々撮影できる場所まで近付けませんでした。寛容と忍耐の結果を1枚。





神社の正面を通りに抜けると、角に老舗のお餅屋さん。こんなところがご本家さんとは知りませんでした。 


2022年6月7日火曜日

国井桂:「ツユクサ」

 映画の脚本を基に小説化した作品。

症なんか千葉海岸を思い浮かべる、小さな街のたとる工場に勤める3人のアラ50の3人とその中の地元出身の尚子の一人息子、航平を巡るこれからの人生設計に関わるお話。航平はその中の芙美と気が会い、勝手に親友と位置付けて付き合っている天体好きの少年だ。ある日の夕刻、夜空に火球が落ちてきてたまたま通りかかった文乃車の屋根に当たり、車は道端に横転する。隕石が人にぶつかる確率は1億分の1、とあるサイトに記事を見つける。

4人の人生幾度目かの節目を希望の道に連れ出していく物語。

2022年6月5日日曜日

高田郁’「あきない世傳金と銀」(9~10) 

 前田加賀藩からの飛び込みの呉服注文を受けて、五鈴屋は苦境に陥った。なぜか?元々、呉服組合があって、色んな決め事があったが大阪に比べると緩やかなものだったが、こと武家対象となると訳が違った。半ごとの定紋が定められ、取扱業者も特定化されていて、他の業者は手を出してはいけない、規定になっていたのでそれに触れて組合を除名されてしまい、呉服を取り扱うことができなくなった。呉服は絹物、太物は木綿もの、売値では同じ1反でも売値は1/4ほどになってしまい、商売にならない。五鈴屋江戸本店は大ピンチに。その上、幸の妹の結が呉服の新柄の小紋染めの図案を持ち出して家を出て、こともあろうに金貸しの音羽屋の元に身を寄せ、音羽屋の息のかかった呉服屋、日本橋音羽屋から売り出し大当たりをとる。順風満帆で発展してきた4年間が暗転し、踏んだり蹴ったりの逆境に陥った五鈴屋の面々は苦悩し、知恵を絞る。「衰える兆しは最も盛んな時に生まれ、新たな星雲の芽生えは何もかも失った時、すでにある」という菜根譚の中の1フレーズを店に立ち寄った漢学者に教えられ、3年の月日を数えて、藍染めの浴衣にたどり着く。服飾の歴史を見るような又、24節季の季節感を味わえるような日本の四季の移ろいの美しさを味わえる波乱万丈の江戸中期商家の盛衰の物語。あと残すは2巻かな?どこまで続くのかは分からない。

2022年6月1日水曜日

鎌倉便り:川喜多映画記念館

以前大船には大きな松竹の映画撮影所があった。「キネマの天地」にその様子が描かれているはずだ。残念ながらまだ見ていない。鎌倉に来て、映画館がないなぁとちょっと寂しい思いをしていたところ、観光案内書で「川喜多映画記念館」の存在を知った。川喜多といえばあの川喜多かしこの名前がひらめいた。
川喜多映画記念館、4月7日

ご主人が川喜多長政氏といい、東和商事を設立しヨーロッパの映画作品を数多く紹介した有名な映画配給会社だった。また東宝の社長もやられたはずだ。川喜多かしこはその夫人で「禁じられた遊び」などのヨーロッパ映画を日本に紹介したことで大きな貢献をし、世界各国の映画祭の審査員をいくつもされていた。川喜多夫妻は鎌倉に住んでいて没後、その旧居と広大な敷地を鎌倉市に寄贈され、その一角に「川喜多映画記念館」を建てて、縁の深い松竹や東宝、所蔵している海外のフィルムを毎月数本公開できるミニシアターも付属している。早速この会員に入会した。先日は小津安二郎の「秋日和」、昨日は「東京ウインドオーケストラ」(坂下雄一郎監督、2017年)を観てきた。外に回ると広い庭園の上の方に日本家屋があり、道路側に映画記念館が建っていることが分かる。梅雨の前触れのような小雨模様の映画記念館の植え込みには数種のアジサイが植えられ、3分咲き程度で、この時期らしいしっとりとした雰囲気を醸し出していた。
桜の頃の川喜多映画記念館の奥に建つ旧宅、4月7日

アジサイの植え込みが美しい。5月31日撮影


吉田修一:「永遠(とは)と横道世之介」

 横道世之介シリーズの完結編であることはタイトルから想像がつく。これは新聞の連載で読んだものである。と言っても細切れで読んだわけではない。というのは私は新聞のデジタル版の購読者なので、こういう連載小説はHPのアーカイブスのようなところに全部保管されているのでまとめ読みが可能なので...